35歳の誕生日に直面した母親の呪い

私はあまり母親の話をしないけれど、誕生日には必ず母のことを思い出します。
34歳の誕生日のFB投稿にも同じことを書いていてビビった。笑

でも今回の誕生日は、昨年までのそれとは少し違いました。


昨日のスーパームーン満月効果なのか、
「私が手放したいものって何だろうか」
と考えていた時に出てきたのは"社会的信用"で、なんでそれが出てきたかを考えると母のことが出てきました。


親という存在にそれぞれの人生があると気付いたのは20代半ばでした。
私の母は口下手で孤独な人でした。
実際はどうだったかわからないけれど、私から見た母はそうでした。


私が物心ついた時から両親は不仲で、私の思春期の悩みは両親の不仲と母との関係性でした。
父は自営業で当時裕福な生活をしており、母は専業主婦で、姉と一回り近く離れていた私を溺愛していました。母の生き甲斐が自分だと私が気付くほどに。


でも、私が成長するにつれ家を空ける時間が増えてきて、母は"私"という拠り所の代わりにお金を使うことでバランスを取っていたように思います。

しかし、父の仕事もうまくいかなくなり収入が減ったことがきっかけで、両親の不仲はますます酷くなり母は少しずつ自分を見失い、鬱とアル中になりそんな母を私は蔑んでいたし、避けていました。


母が鬱なんて友達には話せなかったし、誰にも私の気持ちなんてわからないと思っていたし、私には母の存在を隠し母を避けることしかできなかった。どうして私の母親はああなんだろう、と自分の不幸を憂いていた気がします。


母にも
「どうせあんたは私を恨んでるんだろう」
「どうせあんたはお父さんの味方なんだろう」
などと言われたもので、私は絶対に母親のようにはならないと心に誓っていました。


母親のように経済的不安から離婚できないような惨めな女にはなりたくない
母親のように子供を自分の生き甲斐にはしたくない


つまりは経済的にも精神的にも自立した女性であることが私にとっては重要でした。


母親とどう接していいかわからぬまま、母が自ら命を断った時に正直ほっとしてしまった自分がいました。
その後、そう思ってしまった自分を猛烈に責めたし、救えなかった自分を責めました。


あんなにも避けてきた母親を此の期に及んで救えなかったなんて、傲慢にも程があると思ったけれど、そう思うことで自分が救われたかったのかもしれません。


母が亡くなってから数年が経ち、母の死から自分は立ち直ったと思っていたけれど、誕生日の度に母を思い出すことが、少し苦しかった。


母親の呪いとはよく言うけれど、私にはもう母親はいないから関係ないと思っていました。
でも、今日手放すものを考えていた時に
「社会的信用を手放したい」
と思った理由が、母親を蔑んでいた自分から来ていたことに気付いてしまい自分に絶望した。


私は母を不幸だと決めつけていたし
母のようにはならないと思っていた。
自分が誰よりも母を見下していたんだ、ということに絶望して泣いた。


そんな私は母の子宮からこの世界に生まれて、そして私はまた今日一つ年を重ねました。

それは生きることを選んでいる何よりの証拠。
私は母から産まれて、生きている。生きることを選んでいる。


だからもっと自分を生きるために、社会的信用にこだわる自分を手放すことに決めました。
自分をもっと解放するために。

私の社会的信用へのこだわりは、自ら首を絞めていたことに気付いたから。私の価値は社会のモノサシで計るものだけじゃない。

"母親の呪い"とは言うけれど、結局自分で自分にかけてるのね…と改めて思いました。