人から嫌われることは恐れること?
今日、会社の後輩が泣いていたので詳細を聞くと、彼女の発言が他部署の反感を買ってしまい、それに対するお咎めがあったようで、彼女はその他部署から「嫌われてしまった」と言っていた。
私も昔は人から嫌われることがイヤで顔色を伺うこともしてきたけれど、今となっては一番恐ろしいのは人に嫌われたくないがために本来の自分を失うことだと私は思っていて。
「もう(他部署との)会議にも顔を出せません」
と言っていたけれど、そうやって自分をどんどん萎縮させる行為は自分という人間に対して失礼にあたると思ったので、"それはちがうよ"という話をした。
物事には多面性があるので、もちろん彼女にも多面的な部分がある。
ある人は彼女の一面を見て文句を言ったかもしれないけれど、彼女という人間はその一面だけではない。
けれど、人に咎められた事実があるのでそれを起こさせた彼女にもその責任はあると私は考えていて。
それを"悪い"として自分を責めるのではなく
"自分という人間は人にそのような印象を与える可能性もある"
という風に、自分を客観的に見れるようになってほしいなぁと思った。
人から何と言われても、どう思われても
自分ではない誰かのために自分を萎縮させる必要は絶対ない。
人の怒りに触れないように…という考えのもと、自分の行動を制約してしまった結果、本来の自分を見失ってしまうことの方が、人の怒りを買うよりも恐ろしい。
彼女が取り組むべきは、人の怒りにどう触れないか、ではなく、いかに自分という人間を表現するかだと思う。
だって多面的に彼女を見た結果、魅力的な部分がたくさんあるんだもの。
そんなことを感じた年明け初日の勤務でした。
※年末に見た富士山