闇は自分で生み出している

最近集中して映画を観たり、本を読んだりと非常に文化的に過ごしています。
今回は「ブラックスワン」を観ました。
主人公が闇に翻弄される話です。


すんごい私の主観ですが、純真無垢というか、光しか知らない、というのはある意味とても苦しいことなのかもしれないと思いました。


危険な香のするものに人間が惹かれてしまうのは、その先の未来を予測できないからではないだろうか。
闇は暗いから見えないしね。


主人公はそこに理解ができない(自分の中には今までなかったから想像すらできない)からとても苦しんでいたように思います。


結果自分をどんどん追い込んでしまい、自分の闇に自ら手を下したように私は感じたのですが、自分の中にある闇というのは自分が生んでいるし、自分が育てているのです。


闇を自分と切り離して考えてしまうと
自分の闇をコントロールしようとしてどんどん自ら恐怖に追い込んでしまうのだけれど。


私は根暗だったから自分の中に闇の存在を感じていたしある意味免疫があったと言えるのかもしれない。

けど、それが自分の中にあるなんて知らないし考えたことも感じたこともないという人にとってはすごく苦しいことなのではないかなー。
光であるからこその苦しみというか…
闇は自分の中の性を扱うとわかりやすいのかもしれない。


最後のシーンで、主人公が闇を取り込んだように私には感じてとても揺さぶられ涙が出た。
自分の中の闇と向き合ってみたい、という方にはおすすめします!

ただ、ちょっとえぐられるような感じがするかもなので気をつけて…

魂は覚えている

クラウドアトラス」という映画を観ました。
これの原作者は絶対アカシックリーダーだと思うw


一つの魂は何度も何度もいろんな人生を生きますが、まさにその話。
一言で説明すると、一つの魂のいろんな人生を取り扱った映画です。


約3時間というなかなかの長編ですが、
随所にメッセージが散りばめられていて
いろいろ感じたし考えさせられました。


感想を述べるにもなんだかまとめられない。
それくらい、この映画は観る人によって感想がちがうと思います。その多様性も素敵だ。
今の私がこの映画から感じたことは
「魂はやはり覚えている」
ということ。


私たちが普段生活する中で、何かに接した時になんとなく感じていることは魂が覚えているからのことが多いような気がします。


初めて会ったような気がしない人、とか
前にも来たことがある気がする場所、とか
いつかは思い出せないけど聴いたことのある曲、とか


魂の物語はひとりの人生を超えて壮大です。
本当にロマンチックだ。


アカシックリーダーになって、魂の部分に触れられることがとてもうれしくもあります。

観るには気合がいりますが(^^;
オススメですー!

35歳の誕生日に直面した母親の呪い

私はあまり母親の話をしないけれど、誕生日には必ず母のことを思い出します。
34歳の誕生日のFB投稿にも同じことを書いていてビビった。笑

でも今回の誕生日は、昨年までのそれとは少し違いました。


昨日のスーパームーン満月効果なのか、
「私が手放したいものって何だろうか」
と考えていた時に出てきたのは"社会的信用"で、なんでそれが出てきたかを考えると母のことが出てきました。


親という存在にそれぞれの人生があると気付いたのは20代半ばでした。
私の母は口下手で孤独な人でした。
実際はどうだったかわからないけれど、私から見た母はそうでした。


私が物心ついた時から両親は不仲で、私の思春期の悩みは両親の不仲と母との関係性でした。
父は自営業で当時裕福な生活をしており、母は専業主婦で、姉と一回り近く離れていた私を溺愛していました。母の生き甲斐が自分だと私が気付くほどに。


でも、私が成長するにつれ家を空ける時間が増えてきて、母は"私"という拠り所の代わりにお金を使うことでバランスを取っていたように思います。

しかし、父の仕事もうまくいかなくなり収入が減ったことがきっかけで、両親の不仲はますます酷くなり母は少しずつ自分を見失い、鬱とアル中になりそんな母を私は蔑んでいたし、避けていました。


母が鬱なんて友達には話せなかったし、誰にも私の気持ちなんてわからないと思っていたし、私には母の存在を隠し母を避けることしかできなかった。どうして私の母親はああなんだろう、と自分の不幸を憂いていた気がします。


母にも
「どうせあんたは私を恨んでるんだろう」
「どうせあんたはお父さんの味方なんだろう」
などと言われたもので、私は絶対に母親のようにはならないと心に誓っていました。


母親のように経済的不安から離婚できないような惨めな女にはなりたくない
母親のように子供を自分の生き甲斐にはしたくない


つまりは経済的にも精神的にも自立した女性であることが私にとっては重要でした。


母親とどう接していいかわからぬまま、母が自ら命を断った時に正直ほっとしてしまった自分がいました。
その後、そう思ってしまった自分を猛烈に責めたし、救えなかった自分を責めました。


あんなにも避けてきた母親を此の期に及んで救えなかったなんて、傲慢にも程があると思ったけれど、そう思うことで自分が救われたかったのかもしれません。


母が亡くなってから数年が経ち、母の死から自分は立ち直ったと思っていたけれど、誕生日の度に母を思い出すことが、少し苦しかった。


母親の呪いとはよく言うけれど、私にはもう母親はいないから関係ないと思っていました。
でも、今日手放すものを考えていた時に
「社会的信用を手放したい」
と思った理由が、母親を蔑んでいた自分から来ていたことに気付いてしまい自分に絶望した。


私は母を不幸だと決めつけていたし
母のようにはならないと思っていた。
自分が誰よりも母を見下していたんだ、ということに絶望して泣いた。


そんな私は母の子宮からこの世界に生まれて、そして私はまた今日一つ年を重ねました。

それは生きることを選んでいる何よりの証拠。
私は母から産まれて、生きている。生きることを選んでいる。


だからもっと自分を生きるために、社会的信用にこだわる自分を手放すことに決めました。
自分をもっと解放するために。

私の社会的信用へのこだわりは、自ら首を絞めていたことに気付いたから。私の価値は社会のモノサシで計るものだけじゃない。

"母親の呪い"とは言うけれど、結局自分で自分にかけてるのね…と改めて思いました。


想像力の偉大さ

連日の「鎌倉ものがたり」ネタですが…
もう一つ感動したことが"想像力の使い方"でした。

映画の中で主人公が自分の想像力を使って三次元的に物を出現させる場面があるのですが、
あれって私たちの世界に起こっていることだと思っていて。


頭の中で想像したことって大概当たりませんか?

つまりは結局自分で起こしてるんですよね。
それ程、人間の想像する力ってパワフルだということです。

それくらい自分にはパワーがある、と自覚がないとちょっともったいない…
でも実際自覚ない方の方が多い気がします。


自分の世界で起こっていることは、すべて自分が起こしていること。
想像したことを現実にする力が私たちにはある。しかも猛烈な程に。


人間が持つ想像力の偉大さ、
そしてパワーの強さを改めて感じさせてもらえて"やっぱり人間ってすごいなぁー"と感動しました♡


それと同時に、自分でも想像力の使い方気をつけようっと思いました♡

大切に想う説明のつかない理由

「"DESTINY 鎌倉ものがたり"という映画がいいよ!」と聞いたので観に行ってきました。

あの映画を観た人はきっと自分にとって大切な人を必ず思い出すんだろうなぁ。
かく言う私も、大切な人を思い出して何の涙かわからない涙が出ました。


はじめて出会った時に感じた感覚や
顔を見る度に感じる愛おしさや
声を聞く度に感じる安心感や
そう感じる説明のつかない理由や…


それを説明するにはいわゆるソウルメイトや前世の繋がりや縁という表現が当てはまるのかもしれないけれど


私にとってはそれはどうでもよくて
やっぱりただただその人に会いたくなりました。それと同時に魂の深さを感じた。


説明がつかないけれど心の中に浮かぶ人というのは、誰の心の中にもいるのだと思う。
それはきっと魂に刻まれている感覚で、そしてあの映画は人のその魂を震えさせるのかもしれない。
オススメ!

人から嫌われることは恐れること?

今日、会社の後輩が泣いていたので詳細を聞くと、彼女の発言が他部署の反感を買ってしまい、それに対するお咎めがあったようで、彼女はその他部署から「嫌われてしまった」と言っていた。

 

私も昔は人から嫌われることがイヤで顔色を伺うこともしてきたけれど、今となっては一番恐ろしいのは人に嫌われたくないがために本来の自分を失うことだと私は思っていて。

 

「もう(他部署との)会議にも顔を出せません」
と言っていたけれど、そうやって自分をどんどん萎縮させる行為は自分という人間に対して失礼にあたると思ったので、"それはちがうよ"という話をした。

 

物事には多面性があるので、もちろん彼女にも多面的な部分がある。


ある人は彼女の一面を見て文句を言ったかもしれないけれど、彼女という人間はその一面だけではない。

 

けれど、人に咎められた事実があるのでそれを起こさせた彼女にもその責任はあると私は考えていて。

 

それを"悪い"として自分を責めるのではなく


"自分という人間は人にそのような印象を与える可能性もある"

 

という風に、自分を客観的に見れるようになってほしいなぁと思った。


人から何と言われても、どう思われても
自分ではない誰かのために自分を萎縮させる必要は絶対ない。


人の怒りに触れないように…という考えのもと、自分の行動を制約してしまった結果、本来の自分を見失ってしまうことの方が、人の怒りを買うよりも恐ろしい。

 

彼女が取り組むべきは、人の怒りにどう触れないか、ではなく、いかに自分という人間を表現するかだと思う。


だって多面的に彼女を見た結果、魅力的な部分がたくさんあるんだもの。

そんなことを感じた年明け初日の勤務でした。

 

※年末に見た富士山

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やっぱり少しでも長くあなたの顔を見ていたい

私の両親はもう亡くなっていて、親がいないことを悲しいと思うこともないし、もっとこうしておけばよかったという後悔も全くないけれど、たまにふと涙が出る時がある。

 

それはもう会えない寂しさの涙だけど、両親の人生を思い、人生の儚さを思って出てくる涙でもあるのかもしれない。

 

私たちがこの世界に生きるためには、魂の容れ物である肉体が必要。けれど肉体は老化し、いつかはこの世界からなくなる。

 

私は今すぐ自分の人生が終わっても全く後悔はないけれど、自分の人生を思った時に今を生きていることにとても感動することがたまにあって、その中でも私にとってはあなたに出会って想いを伝えられたことがとても幸せなことだと思うのです。

 

この肉体であとどれくらいの時間をあなたと過ごせるのかわからないけれど、私は

 

この目であなたの顔を少しでも長く見たいし
この耳であなたの声を少しでも長く聴きたいし
この鼻であなたの匂いを少しでも感じたい。

 

この身体であなたと過ごせる時間を大事にしたいのです。
時間を超えてまた会えることはわかっていても、やっぱり今この身体で少しでも長く会いたい。